『とらわれて夏』
何か題名が昔の歌謡曲みたいなので、一瞬見ようかどうか迷ったが、見始めたら引き込まれてしまった。原題は『Labor day』。アメリカでは「労働者の日」という休日で、9月の第一月曜日。夏の最後の連休。次の日から新学期が始まるので、この日は「夏の終わりを告げる日」という意味があるらしい。
1987年、アメリカ東部の静かな町。アデル(ケイン・ウィンスレット)は夫と離婚、13歳になる息子ヘンリー(ガトリン・グリフィス)と二人暮らしをしている。心に傷を負っていて、ほとんど家を出られない。一ヶ月に一回の買い物にスーパーマーケットに出かけた二人は、脱獄囚のフランク(ジョシュ・ブローリン)と出くわしてしまう。絶対に危害は加えることはないという言葉を信じ、アデルは彼を自宅にかくまうことになる。それから、「夏の終わりを告げる日」までの3人の運命を変える五日間が始まる。
この映画では、3人が新しい世界へ旅立てるかどうか(つまり、フランクが捕まるかどうか)という進行するサスペンスを軸に、脱獄犯とシングルマザーの奇跡的な恋の物語が語られる。それとともに、この映画は、13歳のヘンリーの成長物語でもあり、二重、三重の複雑な構造を持っている。設定にはかなり無理なところもあるのだが、細かいエピソードの丁寧な積み重ねと抑制された演技で見るものを納得させるリアリティを確保している。
淡々とした態度で、家のあちこちを修理し、車を直し、ヘンリーに野球を教え、料理を作るフランクに、アデルとヘンリーは次第に魅かれていく。
アデルは、はじめは母として息子を守りたいという強さとそれとは裏腹のガラスのような脆さばかりが目立つ。それが、フランクに魅かれていくうちに、次第に女性としての自分を取り戻して変容していく。
ヘンリーは母の変容に思慕と嫌悪の双方を抱きながら、フランクに理想の父親像を見出していく自分を認め、その変容を受け入れようとする。
やがて、3人は新しい生活を目指すが、夏の終わりとともに、当然のごとく予想された悲劇的な結末がやってくる。
時々に、ケイト・ウィンスレットは、息をのむほど美しい。ジョシュ・ブローリンは、どのシ-ンでも静謐で、知的なたたずまいを崩さない。ガトリン・グリフィスは、「少年」と「大人」の自分を行き来しながらな、戸惑いや逡巡、喜びや絶望を、あるいは性への目覚めや恋の芽生えを、繊細に演じている。3人の演技を見ているだけで、いい映画を見ているという充実した気持になってくる。
映画は、ヘンリーの視点で進められていく。ただ、アデルがなぜ、家を出られなくなるほど、心を傷つけられたのか、フランクがなぜ罪を犯したのか、ということについては、小刻みなフラッシュバックで語られる。アデルとフランクが、なぜ惹かれあっていくのかということを理解されるためには、二人の過去が示されることは、確かに絶対必要なのだが、この部分は、ヘンリーの視点から離れるので、なんとも違和感がある。どこか、説明的なのだ。もともと、欲張りな設定の映画なので、これ以上の工夫は難しいのかもしれないが.
それでも、やはり巧みな脚本、すばらしい演出というべきなのだろう。積み重ねられていく小さなエピソードが、最後の運命に収束していくのは見事なものがある。アメリカ映画の秀作である。
《監督・脚本》ジェイソン・ライトマン
《原作》ジョイス・メイナード
2014年日本公開
追記
最後に、その後の3人が語られる。この部分があることで深い感動を呼ぶ、という考えもあるだろうが(原作がどうなっているかわからないが)、私はかえって3人の「運命」が薄まってしまうような気がするのだが。
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