以前、「あと500冊の本」という記事を書いた。死ぬまでにせめてこのくらい読めたらという私の願いだ。そして、そこにはつぎのようなことを書いた。
あと、500冊。それなら、つまらない本は読みたくない。これを読めば、何かのためになるとか、何かの役に立つとか、そういうのも嫌だ。見栄や体裁で本を選ぶことは、最もばかばかしい。かといって、昔読んだことのある、安全な本ばかり読んでいるわけにもいかない。新しいものを補充しない読書生活も送りたくない。
随分、偉そうに書いているが、とはいうものの、小説の場合(私の場合は、読書の7割ぐらいが小説なのだが)は、この年齢になってみると新しい作家やこれまで読んだことのない作家の本を読むのは、なかなか冒険心が必要だ。読む力に柔軟性が欠けはじめているし、これまでの固定観念的なものにとらわれやすい。別に、この本を読み始めたのは失敗だなと思えば、途中で読むのをやめても、誰に咎められるわけでもないのだが、貧乏性なのか、無駄な時間を使ったような気がして落ち着かなくなる。特に、購入した本の場合は、貧乏性が加速する。間近に、本屋が少なくなったこともあって、本の衝動買いはずいぶん減ったのだが。
「君の膵臓が食べたい」は、その数少ない衝動買いした本の一冊だ。まだ、出版されてすぐの頃だ(第1刷を購入している)。奇抜な題名に、なんとなく勘が働いたのだが、買っただけで満足したような気持ちになり、結局、手に取ったのは一月ほど前だ。
読み始めると、実にスムーズに読める。この「住野よる」という著者は、なかなか達者な書き手で、文章もうまいし、企みのあるストーリーにもひきつけられるものがある。そう長いものでもないので、2日ばかりで読み終わった。読み終わって、首をひねった。本の帯には、「ラスト40ページは涙、涙、涙」という惹句がある。
今の若い人たちにとって、「涙、涙、涙」なのだろうか。
こと細かく分析するような力は、私にはないが、私にはラスト40ページで、内容が薄まったような印象が強い。前半から中盤にかけての軽妙な会話のやり取りや、繊細な心の動きや描写には心惹かれるのだが、最後の手紙や独白で急にカラーからモノクロになったような物足りなさを感じた。結末もどこか安易で因縁話のように思えてしまう。何か、良質のコミックを読んだ後のようで、小説を読んだという気がしないのだ。
実は、こういう読後感は二度目で、恩田陸の直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」を読んだ時も同じような違和感を持った。すぐれた表現力、ストーリーの巧妙さ、人文造型の上手さ、などに感心して読んでいたのだが、読み終わってみると、どうも文学の匂いが薄く思われてくるのだ。なんかコミックみたいだな、面白いが、繰り返し読むことはないだろうな、と思えてしまう。これは、やっぱり、年をとって読む力も、感受性も衰えて、新しいものを受け付けなくなっているからなのか。
ただ、「住野よる」という作家はやはり気になっていて、この間、2作目の「また、同じ夢をみていた」を購入した。もう少し、暖かくなったら、読んでみようと思う。