時代劇専門チャンネルが、錦之介没後二十周年記念ということで主演作品を連続放映している。先日の「仕掛人梅安」に続いて、今回は世評高い「関の弥太っぺ」。長谷川伸原作の股旅物である。と、書いては見たものの、実は私には、長谷川伸も股旅物も解説するほどの知識はない。長谷川伸は「荒木又右衛門」といくつかの短編しか読んだことがないし、「沓掛時次郎」とか「瞼の母」「一本刀土俵入り」などは、なんとなく知っている程度である。股旅物とはいっても「次郎長三国志」とか「天保水滸伝」など、年を喰っている分、思い浮かぶものもあるが、そうそうなじみのある世界ではない。それでも、見はじめると、どこか懐かしい、よく知っている世界のような気がしてくる。
この映画の錦之介は、前半と後半で、メイクも含めて、印象ががらっと変わる。
前半の弥太郎は、若くて、明るい、いなせな渡世人。きっぷがよくて、腕っ節は強いが、涙もろくて、人情味たっぷりの若者だ。
幼い時に別れた妹に似た小夜のために、もしも妹が苦界に身を落としていたら受け出そうと蓄えていた虎の子の大金を投げ出し、名も告げず立ち去っていく弥太郎。心配していた通り、宿場女郎となって無残に死ななければならなかった妹お糸のために、同輩の女郎(岩崎加根子)の前で、男泣きに泣く弥太郎。錦之助の演技は、どこまでも過剰なのだが、その過剰であるがゆえに、弥太郎の凛々しさも、優しさも、際立つ場面になっている。やはり時代劇は、こうでなければいけない、こういう過剰さがないと逆に空々しく見えるのだ。
後半の弥太郎はその10年後。妹の無残な死を知って、人斬り稼業の荒れ果てた生活に明け暮れ、笑みも涙も失った暗い影のある男に変貌している。
顔の大きな傷。どす黒いメイク。強い眼差し。低いトーン。錦之助はここでもやはり、ときにわざとらしく感じるほど過剰なのだが、それによって、いや、それだからこそ、弥太郎の悲しみも怒りも、そして虚無や滅びの匂いも、見ている者にはっきりと伝わってくるのであろう。
ポツリポツリと時代劇は制作され、上映されているが、なんとなく物足りない思いがするものが多い。いままでにない新しい視点からであったり、史実を掘り起こしたり、と工夫はされているのだろうが、どこか淡白な印象のものや、奇をてらったものが多い印象がある。
一つ一つの所作でも、殺陣でも、時代劇の全盛時代のように、誰もが時代劇を基礎から学ぶような機会も需要も無くなったということももちろんあるだろう。だが、錦之助の頃の映画と比べて見ると、今は過剰であることの良さ、凄さに気がつかなくなっているような気がする。あるいは、古いとか、時代遅れということで、見限っているのか。
成長したお小夜(十朱幸代)と弥太郎が初めて言葉を交わす別れのシーン。右にお小夜、画面左に弥太郎、中央に木槿(むくげ)の花咲く生垣。なんとも切ない場面だ(ものを知らない私は、木槿の花の生垣というのがこれほど美しいということを、この歳ではじめて知った)。
小夜に、弥太郎は10年前と同じ言葉をいう。
「この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる」
「ああ、明日も天気か」
名台詞だが、こういう台詞もやはりただの過剰と捉える人が今は多いのか。
時代劇は映画でもテレビでも、これからもやはりポツリポツリと作られていくのであろうが、私や私の上の世代が楽しんできた時代劇とは、違った形でしか残らないのかもしれない。いずれにせよ、残念なことだが、錦之助も橋蔵も、雷蔵も勝新も、新たに出てくるようには思えない(その中でも股旅物は最も死滅に近いジャンルのように思えるのだが)。
「関の弥太っぺ」1963年公開 監督 山下耕作
- 「関の弥太っぺ」は1935年に稲垣浩・山中貞雄監督、大河内傳次郎主演で公開されたものが、最初の映画化作品らしい。ネットで調べたところ、1955年の島田正吾主演、渡辺邦男監督の新東宝版、1959年の長谷川一夫主演、加戸敏監督の大映版があるらしい。連休に図書館で改めて調べてみようと思う。
- そういえば、「股旅」という映画もあった。萩原健一、小倉一郎、尾藤イサオの三人組の渡世人の実録青春股旅物といった感じだった。リアリズムといえばそうで、ここに出てくる渡世人は汚くて、しみったれていて、「弥太っぺ」とは正反対。確か、テレビの「木枯らし紋次郎」よりあとだったから、ねらって作ったのだろう。監督は市川崑。ATGの映画で、日劇文化で見たような記憶がある。
- 長谷川伸の作品は、まだ、図書館であれば十分読めるので、これも幾つか予約を入れた。連休中だから、少しは読めるだろう。
- 「1、2の三四郎」「柔道部物語」の小林まことが長谷川伸の股旅物を漫画化しているのを思い出した。何冊か買ったはずだが、どこかに埋もれてまだ読んでいない。これも探さなくちゃいけない。ゴールデンウィークは、結構忙しくなりそうである。
次の記事もどうぞ。