最近、またポツポツと田宮虎彦を読み返しているのだが、『比叡おろし』という哀切な短編小説を読んでいて、ふと記憶を呼び覚まされる一節があった。それは、全く個人的な記憶であって、作品の中身とも作者の田宮虎彦とも全く関連がない。
主人公の苦学生が、同じ下宿に住んでいる細井さんの十歳ばかりの娘に名前を問う場面だ(その日はちょうど、東京の首相官邸で海軍士官が犬養首相をうちころした日の翌朝なのだが)。
私は、前夜、細井さんが ⎯⎯ よう子といって、その子をよんでいたのを聞いていた。だが、知らないふりをして、私をみあげているその子に
「何て名前なの」
と聞いた。すると、その子は、やはりはにかみながら
「よう子」
と答えた。
「どんな字をかくの」
「葉っぱの葉の字」
私は、その ⎯⎯ 葉っぱの葉の字という返事が思いがけなくおかしくて笑った。
田宮虎彦「比叡おろし」田宮虎彦作品集(光文社)
私は長く教員をしていたので、随分たくさんの名前に出会ってきたが、葉子という名には一人だけしか出会った記憶がない。その「葉子」は、数多い教え子や同僚でなく、私が小学生の頃の同級生だから、ちょうど、この小説の葉子と同じぐらいの年になるのだろう。
私が出会った葉子という名の少女は転校生だった。特別に美少女というわけではなかったが、静かで大人びた雰囲気の少女だった。転校してきてすぐに、彼女が図抜けて勉強ができることがわかった。私もそれなりに優等生だったのだが、勉強ではまったく歯が立たなくて悔しい思いをしたのは覚えている。
学校は、東京の東のはずれにあった。町工場と住宅が共存している活気はあるが落ち着かないガサツな雰囲気の町だったから、最初から彼女は注目される存在になった。だが、しばらくすると、クラスの女の子の間に自然に溶け込んでいったのは、彼女が常につつましい態度であったためだろうか。目につくのはテストの結果が返ってくるときだけで、どの教科もほぼトップだったから、心ないやっかみや中傷があったはずだが、彼女はいつも淡々としていた。
私の世代は「子」が付く名前が全盛だったが、「葉っぱの葉の字」の「葉子」という名前は、ほかの「子」の付く名前とは少し違った感じがした。どこか垢抜けた印象を受けた。もちろん、当時はどうしてそんな感じがするのかなどということは考えもしなかったが、今になってみると、それは、多分、「陽子」や「洋子」と違って、「葉」という字には特別な意味を感じられなかったからだろう。なんとなく、字の形や色のイメージが先行した名前で、流行りのキラキラネームのような印象を受けていたのだろう。彼女のイメージとも重なって、それが洒落た都会的な名前に感じられたのだろう。
5、6年生の2年間、同じクラスだったが、彼女との個人的なエピソードも思いつかないし、特に親しく会話をした記憶もない。
ただ、彼女が一度だけひどく泣いたことがあって、その時の彼女の姿は、今も鮮明に浮かんでくる。彼女が絞り上げるような声で泣いていた。それは号泣といってもよかった。放課後、委員会か何かで遅くなって、もうほとんど子供が残っていない頃の時間で、クラスの女の子が何人か戸惑いながら彼女を取り囲んで慰めているだが、彼女は一向に泣き止まず、泣き声は昇降口で響き渡った。何が原因だったのか、もう覚えていないのだが、彼女が泣くこと自体が私には驚きだったし、その声の激しさにもあっけにとられた記憶がある。あっけにとられたのはもう一つあって、次の日、何もなかったように、彼女が物静かな優等生の姿に戻っていたことだった。
彼女は中学は私立に進み、私は地元の公立中学、都立高校と進んだ。住んでいる地域も離れていたので、その後、彼女に会うことはなかった。
それから7年後。一浪して、ようやく入った大学のキャンパスで、私は彼女と偶然すれ違った。私は思わず、振り返ったが、彼女はそのままスロープを上っていった。
私の入った学部は、学部独立のキャンパスだったから、同じ学部なのは確かだったが、私は浪人していたので、学年は彼女の方が1年上だったのだろう。それから、何度もすれ違うことがあったのだが、彼女にはなんの反応もない。私には、彼女にまちがいないという確信はあったが、かといって、声をかける特別な理由も見当たらない。それに、始まったばかりの大学生活は新しい友人との付き合いや学費を稼ぐためのアルバイトで思いの外忙しかった。
彼女に声をかけたのは、もう木枯らしが吹く頃だったろうか。その頃、もう中身は忘れてしまったが、私は売らなければならないチケットを抱えていた。そのいたって売れないチケットに、友人と二人で辟易していた。とにかく見知った顔を見つけては手当たり次第、交渉をしていた。それでも売れずに、困り果てて友人と一緒にベンチに腰掛けていると、目の前を二人連れの女子学生が通り過ぎた。
私は、思わず声をかけていた。
「⎯⎯⎯⎯さん。⎯⎯⎯⎯葉子さんですよね」
怪訝な顔で、彼女が振り返った。
「突然ごめんなさい。覚えてないでしょうが、私、あなたの小学校の同級生なんです。あなた⎯⎯⎯⎯区立⎯⎯⎯⎯小学校の卒業生ですよね」
それから、私は自分の名前を告げた。
ああ、と彼女は小さな声を挙げたが、その表情をみれば、私のことが全く思い出せないのは確かなことだった。記憶の片隅にも、私のことは残っていないようだった。同じクラスにいた女の子たちの名前を幾人かあげると、一瞬懐かしそうな顔をしていたが、ヘラヘラ話を続けている私に困惑しているようだった。
それからどうしたのか、実はよく覚えていない。チケットを売ったということは多分なかったろう。それからもキャンパスで、彼女とは何度も出会ったが、目礼するだけで、彼女と話したのはそれが最後になった。
彼女は、小学校の時と変わらず、静謐で、品の良い、落ち着いた雰囲気の学生だったが、私はもう彼女から垢抜けた感じも洒落た都会的な感じも受けなかった。
最近は、本を読んでいても、思わぬ横道に逸れてしまうことが多い。あっちこっちが気になってなかなかはかどらない。それはそれで、また悪いことではないのだが。
名前に関するとりとめのない思い出話である。
過去の記事も、よろしければどうぞ。