2019年3月、私は名人戦の順位戦でC級1組からB級2組に昇級を果たしました。五十歳での昇級は「奇跡」と呼ばれ、注目を集めました。
「私」というのは、17歳の天才棋士、藤井聡太七段の師匠である杉本昌隆八段。
その原動力となったのは、弟子の藤井聡太七段の驚異的な躍進によって師匠の自分まで注目を浴びていることへの気恥ずかしさ、そして棋士としての自分の活躍を心のどこかであきらめかかっていることへの悔しさでした。
タイトルだけ読むと、藤井聡太の名前が入っているが、本書は「悔しがる力」をバネに、50歳をすぎて、二段目のロケットを発射して、再び強くなりつつある杉本八段が、自らを語るドキュメントだ。
今の時代、「悔しい」と口に出すことや、実現できないことにいつまでもこだわる「あきらめない」気持ちははやりません。負けて地団駄を踏んだり、躍起になって怒ったりすることがどこかカッコ悪いと思われているのでしょうか。
杉本八段は二十一歳でプロ入り。タイトル挑戦や棋戦優勝こそないものの、順位戦はB級1組、竜王戦は1組まで上っているから、決して弱い棋士ではない。
だが、藤井聡太七段は紛れもない天才だ。小学生の時から弟子として見ているわけだから、その天才ぶりは杉本が一番よく知っている。
藤井七段は、3年前にデビューから29連勝という空前絶後の記録を作って、社会現象と言って良いほどのブームを巻き起こした。それまで、将棋を滅多に取り上げなかったメディアがこぞって特集を組み、本人が中学生だったこともあって、師匠の杉本八段も引っ張りだこになった。
テレビでは、温厚で、誠実で、愛情深い師匠、というイメージで、どう見ても勝負の世界を渡り歩いてきた人に見えなかった。だが、杉本のいう「悔しがる力」は密かに、彼の胸の奥に火をつけたらしい。
将棋の世界では、タイトルをとるような棋士でも、段々勝てなくなる年齢で、まあ、平均的な中年棋士というふうに思っていた。だが、この本を読むと、その穏やかな外見からは想像できない、勝負師としての熱い息遣いが伝わってくる。
章立ては以下の通り。
序章 過去を想う師匠、未来を見つめる弟子
第1章 藤井の活躍に五十歳にして立つ
第2章 藤井聡太の思考法は?
第3章 人生、いつも悔しがってきた
第4章 AIで地頭が鍛えられる
第5章 必要のない経験はない
第6章 天才と秀才のいた空間
藤井との師弟対決、自らの「奇跡」の昇級、師匠から見る藤井の生活と思考法、その強さの秘密、自らの棋士としての道程、AI時代の棋士の生き方、さらに弟子の育成や教育のあり方など、記述は多岐にわたっている。
コロナの影響で、延期になっているが、師弟が2度目の対決を迎えようとしている(初対決は千日手になり、指し直し局を藤井七段が制している)。
第33期竜王戦ランキング戦3組の決勝戦。勝った方が決勝トーナメントに進出する大一番だ。
十代でのタイトル獲得が期待される最年少棋士藤井七段の前に、師匠の杉本八段が立ちはだかる。あまりに出来過ぎたドラマのようだが、当事者にとっては紛れもない現実、しかも勝つと負けるとでは、栄誉も収入も天地ほど違う。師弟とはいえ、心穏やかではいられないはずだ。
藤井は驚異的なスピードで強くなっている。2016年から3年連続で勝率8割越え。本年度も各棋戦で勝ちまくり、20勝2敗、勝率9割である。
一方、杉本は昨年度は12勝16敗、勝率4割、本年度は6勝4敗ながら、竜王戦では強敵をなぎ倒し、決勝まで勝ち上がった。
勝負師の血は、滾っているに違いない。