若い頃、佐久間良子を見かけたことがある。京都、嵯峨野の二尊院。和服のグラビア撮影をしていた。彼女を中央にして、周りに20代とおぼしきのモデルが7、8人いた。佐久間良子は40代に入ったぐらいだったろうか。
観光客は私も含めて、誰もが、彼女を見ていた。いや、彼女だけを見ていた。
周りはすべて消えた。
圧倒的なオーラだった。
そこに一緒にいるモデルの誰よりも背が低く、おそらく誰よりも年齢は高かったが、誰よりも美しかった。輝くほど美しい、などというと随分ありふれた陳腐な比喩に聞こえるが、彼女の美しさは、輝いているというほかはなかった。
隣で見ていた若い男が(私も十分に若かったが)、
「女優って、すごいな」と、ボソッと呟いた。
『五番町夕霧楼』『湖の琴』の女優の美しさは、それまで出会った女性の中では頭抜けていた。今となってもその事情はあまり変わらない。私は、あの時の佐久間良子より美しい女性には巡り合っていない。
ここまでは、前置き。無駄に長い前置きで申し訳ない。
要するに、何を言いたいのかというと、鶴田浩二も任侠映画もしばらくはいいや、と思っていたのに佐久間良子を見たいがために、『人生劇場 飛車角』を、見たのだということなのだが(なんだか、ゴチャゴチャしているが)。
とはいえ、『人生劇場』。学生時代は、飲み屋で歌って、見ず知らずの先輩に一杯ご馳走してもらったりしたことはあるが、尾崎士郎の原作小説は読んでいないし、14回も映画化されているのに映画を見たことがないが、なんとなく登場人物の何人かの名前を覚えている。青成標吉、飛車角、吉良常、宮川、おとよ等々。
原作は、大ベストセラーになった大河小説。映画はどれも、オールスター競演の大作として製作されたようだ。
歴代の飛車角を見ても、片岡千恵蔵、三船敏郎、高橋英樹、松方弘樹など多士済々。他の役を見ても、それぞれ時代を代表する役者を揃えている。だが、基本は男の映画、下手をうてば、女優は足元から溶けてしまう。まして、この映画のヒロインおとよは汚れ役。見ているものに、ちょっとでも、いやらしさ、不快感を感じさせたら、そこでオシマイ。この女に惚れられたなら、男がすべてを捨てても仕方ない、と観客を納得させるものがなくては務まらない。
実際、飛車角(鶴田浩二)もおとよ(佐久間良子)もその言動は理不尽なことも多い。おとよを連れ出して、小金一家に身を寄せたのも、無茶な話だし、一宿一飯の義理から飛車角が刑務所に収監されている間に、人力車の車夫になっている宮川(高倉健)に助けられ、わりない仲になってしまうことも、何か理屈だけ考えると、首をひねりたくなる。だから、こんな女じゃしょうがないか、と見ている人に思わせるだけの魅力が不可欠であろう。
この映画の佐久間良子、これも月並みな表現で恐縮だが、体当たりなのだ。垢抜けなく、田舎っぽくて、粗野だけれどどこまでも一途で、情が深い。
仕方ないか、と思わせるだけの美しさと激しさで、佐久間良子はこの映画を我が胸にしっかりと引き寄せている。
高倉健に顔を張られて、すっ飛んでいくときも、見ていて痛いと感じたし、奈良平一家に一人で殴り込みをかけようとする飛車角にすがりつくおとよに、見ている自分までが、泥に塗れた気分になる。
この映画の佐久間良子は、激しく、熱く、きりきりと迫ってくる。共演している鶴田浩二も、高倉健も火照ったような目で演技を続けている。
まずは、立派なヒロインだろう。
この年、佐久間良子は田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』で、大ブレークするのだが、それはまたの機会に。
ところで、「人生劇場』はどうなの、ということになるが、任侠の論理というのは、わかるようで分からない。分からないのだが、勢いで見ていれば、割り切れないままに、分かったような気がしてくるから不思議だ。話も人間も、きれいな形をしていると見ていて気持ちいい、そんな感じで見ていた。
この映画の高倉健を見ていると、このあとの活躍が頷けるものがある。これも触るとヒリヒリするような、熱さがあるのだが、鶴田浩二とはちょっと色合いが違っていて、まだ過渡期であったのか、と思わせる。
吉良常は月形龍之介。背広姿の月形は初めて見た。好演だが、そもそもこの吉良常という訳知り顔の老ヤクザはあまり好きでない。
青成標吉は、若き梅宮辰夫。イケメンぶりにこれもびっくりした。
監督は沢島忠。テンポの良い演出で活気のある映画になっている。
『人生劇場 飛車角』(1963年 東映)監督 沢島忠