記憶にございません
政界を題材にした喜劇ということで、私は同じ三谷のテレビドラマ『総理と呼ばないで』と比べていたが、一緒に見ていた家内は『民王』の方が面白いね、とつぶやいて、途中で先に寝てしまった。
総理大臣が記憶喪失になったことによって起こるいわば「人格」の入れ代わりからくるドタバタ喜劇。そこに、風刺らしきものも入っていないわけではないが、どうにも底が浅い。
「入れ替わり」も、歴代最低の支持率の総理が次第に目覚めて善人になるという設定が、あまりに予定調和的で笑いを呼べないのだ。
もし、この設定が逆だったら、例えば人が良すぎて冴えない政治家が悪逆非道の政治家に「入れ替わる」方が遥かに笑える要素があるように思える。
(遠藤健一と菅田将暉の親子が入れ替る『民王』は、二人の顔を見ているだけで面白かった)
主な俳優
主演の総理;中井貴一
お荷物の総理夫人;石田ゆり子
その夫人と不倫関係の秘密を持つ辣腕秘書;ディーン・フジオカ
有能な女性秘書;小池栄子
内閣の実権を握る官房長官;草刈正雄
官邸のお手伝い;斉藤由貴
野党の党首で総理大臣の愛人;吉田羊
謎のフリーライター;佐藤浩市
アメリカの女性大統領;木村佳乃
その他、梶原善、阿南健治、小林隆、近藤方正など、三谷組の常連も多いようだ。
笑えない理由
だが、達者な俳優をこれだけ贅沢に使って、これほど笑えないのなら、どこかに根本的な間違いや勘違いがあるとしか思えない。
中井貴一は、シリアスな演技もドタバタ喜劇もこなせる達者な俳優だが、この映画の総理大臣は彼が演じるには底が浅すぎて、持ち前のセンスや品の良さが活かせない。
草刈正雄は、前述の『民王』にも出てきた。端正な容姿だが、泥臭い役も、飄々とした役柄も、器用に演じる巧さがある。だが、この映画の役は敵役としては物足りない。
結果、この役は彼にはもったいない気がする。
佐藤浩市は、私見だが、喜劇には向かない。それは、芸域が狭いというわけではなく、あくまでも役者の個性の問題だ。
石田ゆり子には、どこかの国の首相夫人が重ねられているのは明白だが、それが風刺になっているわけでもなく、ただ愚かな女というだけなので、せっかく美しい石田ゆり子が色あせてしまう。
ディーン・フジオカ、小池栄子、吉田羊は、今、最も力のある中堅俳優だが、ここではあまりに類型的で、印象が薄い。
唯一、ぶっ飛んでいたのは木村佳乃で、この一癖も二癖もある女大統領役にはじけている。
私は、舞台を見ることはないので、三谷幸喜の作品に出会うのは、彼が脚本や演出を手掛けたテレビドラマや映画ということになる。
最初の映画『ラヂオの時間』は、腹を抱えて笑った。『みんなのいえ』もよかった。だが、その後の映画あたりから、笑いが減少し始めたのはなぜなのか。
彼の作品では、まず、特異なシチュエーションが設定されて(あるいは特異な人物が現れて)、それが必然的に巻き起こす騒動やトラブル、既成の人物と異質の人物によるそれぞれの常識と非常識の相克と融和、その過程で引き起こされる理不尽な笑い、これらが緻密に配置されて、ドラマになっている。だから、ある程度、三谷の作り出す笑いに熟練した俳優が必要なのだろう。だが、それが諸刃の剣になっているのかも知れない。
私は一観客だから、作るほうの事情はわからないし、別に知りたいとも思わない。だが、一観客としていうならば、せっかく映画館まで出かけるのなら、毎回、新しいぶつかり合いが起こす、もっと緊張した笑いが見たい、と思うのは私だけなのだろうか。