キャスリン(ケリー・マクギリス)は178cm、大柄で体格がいい。
サラ(ジョデイ・フォスター)は161cm、随分、華奢だ。
着ているものずいぶん差がある。
キャスリンは、検事だからキチッとしたスーツ姿。
サラは、ちょっといかれたネエちゃん風。ノーブラでタンクトップ、などという格好で酒場に来たりする。
キャスリンの言動は、論理的で、知性的だ。
一方、サラは、蓮っ葉で感情的だ。その蓮っ葉さが堂にいっている。
私は英語がわからないが、多分、話し方も語彙もこの二人は違うのだろう。
この映画は、アメリカで深刻な社会問題となっていたレイプ事件を真正面から取り上げ、24歳のジョディ・フォスターがオスカーを獲得した法廷劇。
当時、悽愴なレイプシーンと、それを体当たりで演じたジョディ・フォスターが評判を呼んだのを覚えているが、今、こうやって見終わってみると、別の問題も気にかかってくる。
映画の進行とともに、サラの現在の生活と幸い薄い生育歴がわかってる。
レイプの被害者サラは、大酒飲みで、マリファナを吸い、ヤクの売人らしい男と一緒に住んでいる。家はトレーラーハウスだ。ウェートレスで生計を立てているらしいが、どうやら同棲中の男はヒモに近い。だが、くだらない男だとわかってはいても、寄りかからなければ生きれないのだろう。
父親は、サラが生まれると母とサラを置いて出奔したらしい。母も、また男に寄りかかって生きてきたらしいことが、サラが母に電話をするシーンでわかる。
どんな学歴だったかははっきりとはわからない。だが、サラがキャスリンに、「あなたは大学は出ているよね。当たり前か」とさびしげに尋ねるシーンからわかる。
酒場で加害者の大学生に興味を持ったのも、自らの満たされぬ思いがあるからかもしれない。
キャスリンもレイプ被害は気の毒だとは思っているが、サラのだらしない生活ぶりやアルコール中毒やマリファナなど、その生活ぶりには我慢がならない。
被害者と検事の女性二人が、すれ違いと反発を繰り返しながら、お互いの生育歴、生活や環境が作ってきた高く、厚い、「格差の壁」ともいうべきものを乗り越えて理解しあっていくというテーマが一貫して映画の芯を支えている。
その二人の距離を象徴的に示すのが、何回か繰り返される、星占いに関する会話だ。
サラがキャスリンに車の中で唐突に生まれ月を聞く。それから星占いを信じるか、を問いかける。
キャスリンは、にべもない。何をこんな時にばかばかしいことを聞くのかという顔をしている。
その後も、何回かサラは星占いの話をする。あなた、何時ごろ生まれた?その度にキャスリンは迷惑そうな、当惑したような顔でポツポツ答える。
(知識がなくてわからないのだが、星占いでは、生まれた日時や時間をもとに、個人のチャート図みたいなものを作るらしい)。
陪審員の審議を待っている間に、サラはキャスリンのチャート図のようなものを作ってきていて、キャスリンに見せる。どうせ、私のサインはいらないでしょ(作成者のサインを書いて渡すらしい)。
いえ、サインして頂戴。
嬉しそうな顔をするサラ。
論理的で高い教育を受けてきたキャスリンにとっては、星占いなどという不確かなものは不要であろう。迷信を鵜呑みにして暮らすことなどできるわけがない。
サラはどうだろう。サラだって頭から信じているわけではない。だが、占って、いいことがわかるなら、それに越したことはない。どうせ、実際の生活にそんないいことがあるわけがない。サラはそんな生活をしてきた。
自分のプライドを全て捨てて、証言をした。 髪を切った。男とも別れた。服装も変えた。自分の過去と未来を賭けて、裁判に臨む。
それでも、サラにとって星占いは必要だ。キャスリンは最後にそれを理解した。
彼女も自分の過去と未来を裁判にかけていたからだろうか。
アメリカの社会派の映画は、重層的な構造をもっていて、一見わかったようでわからないことが多い。この映画にも、またアメリカの複雑な事情が込められている。
それにしても、ジョデイ・フォスターは、若い頃から、というか子供の頃からというか、実に達者な俳優だなと、改めて思った。