文豪とアルケミスト
注文していた本が届いた。 marco (id:garadanikki) marukoさんに教えていただいた本だ。
文豪シュミレーションゲーム(?)。うーん。よくわからん。
『文豪とアルケミスト』。略して「文アル」!
泉鏡花がこれ!
徳田秋声がこれ!
唖然とするというか。文豪たちは苦笑しているか、それとも悦に入っているか。
marukoさんの守備範囲の広さに改めて、感銘を受けた。
文豪とアルケミスト文学全集
内容は、新潮社とのコラボ本だから実に本格的だ。
1 たった一年だけの師弟 夏目漱石/芥川龍之介
夏目漱石・芥川龍之介 往復書簡(大正5年2月ー9月)
コラム 菊池寛の葉書/漱石の葉書
芥川龍之介『鼻』
【追想 漱石先生】葬儀記/漱石先生の話/夏目先生
2 われら無頼派として死す 太宰治/坂口安吾/織田作之助
太宰治『ダス・ゲマイネ』
坂口安吾『堕落論』
太宰治・坂口安吾・織田作之助『座談会 歓楽極まりて哀情多し』
【追悼 太宰治】坂口安吾 不良少年とキリスト
コラム 太宰治『斜陽』直筆原稿(一部)
3 幼馴染みにして終生のライバル 泉鏡花/尾崎紅葉/徳田秋声
泉鏡花『外科室』
【追慕 紅葉先生】紅葉先生逝去前十五分前/紅葉先生の玄関番
徳田秋声『和解』
里見弴(白樺派かつ泉の弟子)『二人の作家』
徳田秋声『亡鏡花君を語る』
4 詩人とおんなたち 北原白秋/中原中也/佐藤春夫
北原白秋『河岸の雨』
中原中也『帰郷』『女よ』
佐藤春夫『秋刀魚の歌』
5 マゾヒストにして王様 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎・芥川龍之介
『論争抄』『饒舌録』より/『文芸的な、余りに文芸的な』より
【芥川龍之介、そして佐藤春夫を悼む】
谷崎潤一郎 芥川君と私/いたましき人/佐藤春夫と芥川龍之介
『文壇昔ばなし』
『続蘿洞先生』(直筆原稿版)
なぜ秋声なのか
充実したラインアップだが、徳田秋声はやはり異色だろう。
漱石、芥川、太宰、安吾、織田作之助、鏡花、谷崎、はまだ新潮文庫で読めるものがあるが、鏡花は岩波文庫でもまだ読める。秋声は講談社文芸文庫に何冊か残っているが、少なくとも、キャンペーンで取り上げられる作家ではない。作家としての位置はともかく、知名度は低い。「文アル」のキャラクターの一人だとしても、鏡花との関係が、やはり興味がそそるからであるのか。
※秋声の文庫は、金沢にある徳田秋聲記念館が独自に刊行して発売している。
後記を参考にして下さい。
秋声の鏡花追悼
泉鏡花は昭和14年9月7日に鬼籍に入っている。徳田秋声全集には、5篇の追悼文が載っている。
「鏡花君の追憶」 昭和14年9月9日「都新聞」
「泉鏡花君の死」 昭和14年9月9日「読売新聞」
「泉鏡花君の人と作品」昭和14年9月24日「週刊朝日」
「亡鏡花君を語る」昭和14年10月1日「改造」
「鏡花追憶」昭和14年10月1日「日本評論」
※以下、引用は徳田秋聲全集第23巻(八木書店)
本書に載せられている「亡鏡花君を語る」は、その中でも最も長いものである。
どれも、記述に多少の違いはあるが、内容のあらましと記述のトーンに大きな違いはない。そして、読んでみると、このトーンがまた普通ではない。
追悼文となれば、故人の業績を称えて、長年の親交を振り返って、故人の業績を偲ぶというものだろうが、二人の作家のこじれた「長年の親交」は、その文学的立場の違いやお互いの矜恃もあって、単に「偲ぶ」というようなものではない。
秋声の追悼文は、若年時の二人の親交、師紅葉へのスタンスの違い、人間としての肌合いの懸隔、互いの文学の埋めきれない溝、を包み隠さず、飾らず、直截に語っていく。
その筆致は、ときに苛烈であり、読みようによっては奇怪ともいえる。それでいて、最後は一様にかつてのなれ親しんだ景色を懐かしむかのように、愛惜を持って語られている。
追悼文自体が、評論や小説のような趣があるのだ。
鏡花の女性観や作品に描かれた女性像について、同郷で同門だからこそ知っていると思われる事実をもとに、その天才性と限界を容赦なく評していく。
幼にして母を失つたことが、敏感な少年に与へた刺戟のほども想像されるが、母のイメーヂは慈悲深い観音のやうに美化され、女性を求むる場合、その憧憬が基調となつていたことは勿論で、その頃浚を愛した近所の時計屋の娘への思慕もさうした少年の気持であつたものと思はれる。君が後年の恋愛観もかういふ処から来てゐるので、その女性は必ず彼自身のものでなくてはならず、如何なる環境におかれるにしても、弱い彼の庇護者としての母性であり恋人であらねばならぬのである。彼から見れば、世間の良人は大抵薄野呂で、その美しい夫人が彼のフアンでなければならない訳である。この自己中心の恋愛観は、「外科室」初め、大抵の小説に現はされてゐるが、「高野聖」において、完全に象徴化されてゐると言つていい。若き頃の彼は到る処にこの母性愛と恋人を捜し、美しい夫人が彼のフアンである場合、その良人は学者で あらうと、金持であらうと大抵阿呆に見えたのである。勿論これは或時は貧しく育つた市井人としての、権力階級への反抗心の現れとなつてゐることもあり、一つ一つの作品を調べてみたら、面白い研究ができさうだが、鏡花の作品には、大抵暗い穴の中から、銳い目で人生を透し視てゐるやうなところがあり、子供が無関心の情態から、屢ば知らず識らず大人を馬鹿にしてゐると同じ態勢で、人間のカルケチユアを描いてゐることも多いのである。後年それが段々趣味的になり、洒落になり、自己 陶酔的に陥り、才華に委せて、自身の興味に溺れて行けたことは、寧ろ彼の芸術生活の此の上もない幸福であらう。「亡鏡花君を語る」
※下線は管理者。
最後の一行の皮肉な表現には、愛憎半ばするような秋声の鏡花像が見える。また、師尾崎紅葉との関係についても、次のようにこの追悼文で、精緻な分析をしている。
そんな関係から、紅葉先生は鏡花君に取つては絶対で、その奉仕振は後から行つたものが、少し迷惑を感ずるくらゐ行き届いたものであり、先生をいくらか我儘にした形もあるが、しかし此の師弟関係の美しさには、又一つの江戸児風の洒落や滑稽 気分が多分にあつて、別に厳格といふほどのことはなく人間的情誼の厚いものであつた。先生が何んな人間でも、おれのところへ来れば一人前にして見せるといふ相当の自信をもつたのも、最初の鏡花がすばらしく当つたのにも因るものであらう しかし或る意味では師よりも強い一種の人気のあつたことは鏡花に取つて一つの苦労の種子であつたことは、想像に難くはない。それは鏡花の師への心遣を一層深めたので、やがて又長いあひだにはそれが信仰に似た絶対の尊崇となつたものであら う。勿論鏡花は自己中心の感情から、師に対する独占慾をもつてゐたものでもあらう。この師弟間の感情は「湯島詣」に実によく出てゐる。「亡鏡花君を語る」
そのあとも、鏡花の特異な性癖などをあっけらかんと暴くように書いていくが、ここまでくると追悼文として、どうだろうかと思わざるを得ない。
そして、最後に描かれるのが、秋声が認め、ときに羨んだ、鏡花の持っている天才性についてであり、小説『和解』の顛末である。
文章も奇才縦横だが、座談は殊に面白く、怪談が尤も得意であつた。私は柳川君の小説が大当りを取つて、新派劇でも人気を博した時、彼が定紋附の車で乗りまはし、夫人も指に幾箇かの指環を閃めかし桟敷に納つてゐたものださうで、その様子を手真似しながら滑稽や洒落まじりに描写する時の鏡花の様子を今でも思ひ出すが、それに集る軽薄な芝居ものの描写は一層神に入つてゐた。彼の目はさういふ点で人間の滑稽味を、ずつと奥の奥まで見透してしもうので、その口にかゝつては、どんな生真面目な男でもカリケチユアライズされないではゐないのである。
この天才肌の鏡花も、自然主義全盛時代には戯作者か何ぞのやうに看做されたこともあり、軽い喀血を気にして、数年逗子に転地してゐた前後は、生活も楽ではなかつた。しかし其の後大いなる彼の芸術擁護者が現はれ、文壇の新人にも理解者が多く、生活が安定すると同時に、後の芸術的半生は、恵まれてゐた。私は曾て「黴」で蹉終のときの紅葉先生についてちよつとその人間に触れたことが因となり、鏡花春葉の二人からボオイコツトされたものだが、その間でも三人会食し、二人の痛飲ぶりを傍観してゐたこともあつたが、大体初めから文学の傾向がちがふので、昔しの友情は永いあひだ途絶えた形であつたが、 弟斜汀の死の前に、少し面倒を見ることになり、死んでから再び鏡花と打釈けることができたが、彼の衷心は何うであつたか疑しい。しかし今はそれは問題ではない。私も人々と共に一度はその作品に目を通し、理解ある批評もしてみたいと思つてゐる。彼をよく知つてゐるものは少くとも私もその主なる一人だと思ふからである。 (昭和14年10月1日「改造」)
※下線は管理者
「しかし其の後大いなる彼の芸術擁護者が現はれ、文壇の新人にも理解者が多く、生活が安定すると同時に、後の芸術的半生は、恵まれてゐた。」
生活のために、常に描き続けなくてはならなかった秋声からすれば一種羨むべき存在ではあったのだろう。
『和解』について、鏡花の心づもりを推し量っている秋声の視線は冷めている。そこには、どこか冷徹な作家の目が働いてしまうのかもしれない。
だが、鏡花の死を悲しんでいないという訳ではない。わかりづらいが、鏡花への哀惜の念を自体に嘘偽りがないのも、秋声にとっては矛盾しないのであろう。
私は最近の鏡花を余りしらない。作品はさう読んではゐないので、若い頃の彼について語るに止めておいたが、いづれ新らしく全集も出るから、更めて読んでみたいと思つてゐる。世には鏡花宗の信者が沢山あり、古いと新しいとに拘らず、それらの読者に取つては彼の芸術は恐く絶対のものであらう。
葉門の人達は春葉風葉と若い方から順々になくなり、今また 鏡花も世の徒にたがはず、この世を去つたが、私は余り往来もしてゐなかつたゞけ、思ひ出すことが多く、全集の出るのを待つて、幽明道を隔てゝ彼と語るのを楽まうと思つてゐる。
「鏡花追憶」昭和14年10月1日「日本評論」
この追悼文を読んでいて、もし逝く順番が逆であったら、鏡花はどのような追悼文を書いたろうか。あるいは書かなかっただろうか(秋声は昭和18年11月18日没)。
この項、日を改めて、もう少し続けたいと思っている(家庭の事情で、今はじっくりとした記事を書くのは、物理的に難しい)。
後記
金沢にある、徳田秋声記念館が発行している文庫本。品切れもあるが、郵送でも注文できるはず。


