日付のない便り

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『教師崩壊』(妹尾昌俊著 PHP新書)を読んで考えたこと

 冒頭、自殺された新人の女性教諭の例をあげ、今の本では、教師の仕事は「死と隣り合わせ」で、「ティーチャーズ・クライシス」と呼ぶべき危機的状況にある。

 だから、今こそ「データ」と「ファクト」で教師の問題を語るべきだというのが著者の主張である。感情論や経験則に基づくイメージで語られれる学校像、教師像から脱却して、事実にきちんと向かい合って解決策を見出そうということが主眼になっている。

こういう姿勢は、正しいと思う。この本に散りばめられた多くのデータやファクトも貴重なものだと思うからだ。

 

 

 

 だが、この本が職員室で配られたら、教員はどのくらい読むのだろう。

 校長、教頭、主幹教諭、学年主任、校内研修の担当者あたりは読むだろうか。

 普通の教員は、まず読まない。読んでも、不快になるだけで結局何も変わらない、と思っているからだ。それに、じっくり読んでる暇もない。

 ここに書かれていることに、教師が無自覚なわけではない。ちょっと見渡せば見えるからだ。長時間労働、過酷な勤務、教材研究をしないで教壇に登る後ろめたさ。

 ステレオタイプの授業、モチベーションの低下、不祥事を起こす同僚。だが、教員は大きな声を出さない。黙々と今日も遅くまで仕事をする。

 読み終わって、朝が明けたら、教員の定数が変わって、教員が5人増えていた、というようなことはないのを彼らはよく知っている。これまでも何度もため息をついてきているからだ。

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 教員は様々な基準で分類され、分析され、時に非難され、時に激励される。

本書でも、例えば、206ページにある教師の4類型では、労働時間を横軸に、ワーク・エンゲージメント(仕事に対するポジティブな心理状態)を縦軸にして評価している。

この図を見るとワーク・ライフバランス型が良さそう見えるが、実際にはそう簡単には割り切れまい。サラリーマン型と言うと、いかにも情熱に欠けるような印象を受けるが、家庭の事情で、仕方なくという人いるしそう簡単に判断できない。

 そして、こどもにとっては、どの方の先生も「先生」であるということを忘れてはいけない。周りから見れば、頼りないダメ教師でも、子どもからすれば。大好きな、大切な私たちの先生という事も十分あるのだ。

 

「ファクト」というが、集められた情報から全て「ファクト」が解明されるわけではない。私は、より、声を出さない多くの教員の声を集めて本当に意味の「ファクトを確立してほしいと思う。

 

 

 

 

 以下、思いつくままにいくつか私見を述べる。もう終わったものの戯言と、読み流してもらっていい。ただ、今回取り上げた本にも、語られていないので、何かの参考にしてほしい。

 よく教員の「質」ということが議論されるが、この質というのも曲者だ。

 もう少し教員の生の声を集めたら、違うデータが必要になってくるのでないかということである。

 本書でも語られているように、教員の勤務状況は過酷だ。だがそれなのに、教員から上がる声は、あまりに小さい。これはなぜなのか。

 一つのヒントとして、教員にはどんな理由で教員を目指したのかを考える必要がる。

 教員も公務員で安定しているから、というのももちろん志望動機にはなっているが、あくまでも教員が主で、公務員であることのメリットを第一に考えて教員になる人は少ない。とにかく、子どもたちと一緒にいたいという人たちが教員を目指す。

 教員は、営利とか、出世とか、基本的には無頓着の人が多い。自分の給料も正確に覚えていなかったり、申請すればででる手当てを面倒くさいので放っておくような悠長な人も多い。

 残業も部活も、結構苦にならない教員もたくさんいる。実は、教員という仕事はそれだけ無理しても、面白い、魅力のある仕事なのだともいえる。最近は、流石に遅くまでいるのが偉いというような風潮は無くなったようだが、個人的には苦にしない人もたくさんいる。よくも悪しくも教員の「文化」と言っても良い。ここを理解しないと、教員の意識が低いので改革が一向に進まないなどの意見が出てくる。

 

 次に、教育の話になると、すぐに学力向上の話になるが、それで済む学校に勤務している教員ばかりではない。日本の学校は(少なくとも公立の学校は)、学習指導と共に、生徒指導(生活指導)も全て、同じ教員がになっている。校内暴力、学級崩壊、非行、不登校、虐待、いじめ、発達障害から場合によっては、生活そのものの相談にまで、学校は関係していく。学習指導を蔑ろにするつもりはないが、生徒指導は、今そこにある危機である場合も多く、その都度難しい対応が迫られる。手間ひまがかかるし莫大な時間がかかる。公にできないような事も多く、神経も体力もすり減らす。時には身の危険を感じる事例も少なくない。

 でも、学校はこういう論議の時に、この点を前面に出す事はあまりない。場合によっては、子どものプライバシー等にも関わってくるし、学校全体の教育活動にも響くこともあるので慎重にならざるを得ない事も多いからだ。よく、マスメディアは学校の隠蔽体質ということを取り上げ、学校は自分たちの体面を第一に考える、というようなことを言うが、失礼な言い方だが、多くはゲスの勘ぐりに近い。生徒指導に関わるような問題は、根が深い場合も多く、簡単に公にすれば、混乱を招くようなもケースも多々ある。長期戦になる場合も多い。一日二日記事にすれば良いメディアとは最初からスタンスが違う。

 日本の学校では、教員が。これら全てのことを引き受けてきた。

 なぜか。生活そのものまで引き受けるのが、伝統的な日本の学校のスタイルであり、それができる教員が揃っているからだ。よく、教員の資質が取り沙汰されるが、私の望む最大の資質はその教員がどれだけ「親切で」「真面目」かということだ。

(私は残念ながら、二流の教員だったが)私がこれまで巡り合ってきた教員の中で一流の教員は、必ずこの二つを兼ね備えている。

 目の前に困っている子がいれば、全てを犠牲にしてでも、なんとかしてやりたいという気持ちでコツコツと真面目に取り組んでいく。いつも子供に関わって居るから教材研究などは滞りがち。でも、子どもたちはこういう先生の授業が大好きだ。

 こういう、目にはつかないが、学校を支えている教員はたくさんいる。

 だが、確かにこういう素晴らしい教員が疲れてきているのも事実だ。

 

 ここ20年ぐらい、学校には教師以外の職員がずいぶんん増えた。スクールカウンセラー、教育相談員など、学校によっては、多くの成果を挙げている。

 肝心の教員はどうだ。なぜ、思い切って定数を増やさないのか。小学校では、クラス数の1.1倍しか教員がいない。誰か具合が悪くなればお手上げだ。

 まず、思い切って増やすことが大事だ。仮に余っても、教員はある意味オールマイティでカウンセラーでも司書でも任せてみれば、いろいろやれるはずだ。

 教員の数をまず増やすことが大事だ。

 教員不足の原因として、若い教員が増え、出産が増えて代員が不足しているということが本書でも指摘されていた。ただし、これは全国どこでもというわけではない。職員の年齢構成による。私が勤めていた頃は50代とわずかな20代というような構成の学校もあった。ロマンスの生まれない学校、などど自虐的にいう人もいた。

 教員は学校に行っている時間が多いので、出会いの場が極端に少ない、。黙っていれば晩婚が増える。子供の中で生活をしているのだから、自分も家庭を持ち、子を育てるというのが自然だが、忙しさや出会いの少なさから時期を逸してしまう教員も多い。出産が増えれば、確かに代員不足で困るのだが、大きな目で見れば、新しい活力を蓄えていると考え、知恵を振り絞って乗り切らなければいけない。

 

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 心配なのは文科省が頼りないことだ。大学の受験改革は仕切り直しだし、コロナ 禍の対応にも、リーダーシップが感じられない。

 お辞めになった、前川何某という次官にはほとほと呆れた。

 もし普通の学校の校長が調査のために出会い系バーに行ったという説明をしたら、それは探究心の強い素晴らしい校長だと称賛されるであろうか。

 その前川何某を、ゆとり教育の亡霊のような寺脇研が擁護している。やれやれ。

 

 私は、何年か前まで公立の学校で教職についていたし、教育行政に携わったこともあるので、の教師受難の時代には心穏やかではいられない。

 本書で指摘されていること、提言されていることは、個別には異論のあるものもあるが、納得のいくものも多い。

 だが、実際に教員が読んだら決して気分が良いものではないだろう。それは、痛い所を突かれたからではない。やはり、現場の教師としては違和感を拭いきれないからだ。

 実は日本の教員は圧倒的に優秀なのだ。使命感溢れる希望者も多い。

 本書の趣旨はわかるが、私は、まだ、日本の学校の教員を信じている。応援している。