日付のない便り

日々のとりとめのない覚書 映画や読書 そして回想

コロナ時代の葬儀事情  

 父が亡くなったのは17日の8時過ぎだった。どこにでも見られる愁嘆場が一段落して、葬儀社に連絡をした。7年前に母を亡くしており、葬儀までの手順は大体頭に入っているつもりだったが、いざとなると細かいところはうる覚えで曖昧模糊としてくるのであった。

 

 葬儀社に連絡すると、今晩のうちに病院の霊安室から運び出すのだが、どこに安置するのかということで、自宅では狭いので、母の時の同様に、葬儀社の安置室をお願いした。葬儀社の手配した霊柩車で葬儀社に向かった。葬式につきものなのだが、それぞれの場面に「志」=チップが必要で、この時、葬儀社から運転手に渡してほしいと云われて、葬儀モードに入ったことを実感した。

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 葬儀は、母の時と同じように、近所にある菩提寺で行うつもりだったので、次の朝、住職にお願いに行った。

 その時、住職が

「お通夜はやりますか」

「……、はい? えー、お願いしたのですか」

「……、そうですか」

という会話があって、日程等を決めたのだが、このやりとりにどうも違和感が残った。

 11時から、弟を交えて、葬儀社と 打ち合わせでこの違和感の理由がわかった。

 この打ち合わせでも、やはり、最初に日程の確認で「お通夜はやりますか」と云われて戸惑うことになった。

 新型コロナウイルスの流行によって、葬儀のスタイルが激変しているという。ここ数ヶ月、人が密になることを恐れて、お通夜を行う葬儀の方が少ないという。

 お浄めもやらない場合が、圧倒的に多いという。

 もともと、家族葬が増えて、人を呼ぶ葬儀の形が変わってきているところで、コロナはさらに追い討ちをかけるように変化を招いているという。お通夜、告別式というスタイルは簡単には受け入れられないらしい。それに加えて、高齢化が進んでいることが、必然的に葬儀のスタイルを変化させている。私の父も95歳という高齢で他界したのだが、生き残っている親族も高齢、近所の知り合いも高齢、同級生や田舎の親戚なども高齢、出席したくても物理的に無理という人も多い。そうかといって、葬式は事前に予定が組まれているわけではないから、ネットを利用した葬式というようなことは、今の実態からはまだ難しい。

 それなら、無理をせずに形を適当に整えて、ということになる。無駄に金を使うこともないか、ということにもなる。

 

 頭ではわかったのだが、どうにも釈然としない。

 95歳まで、頑張った父のことを考えると、精一杯のことはしたい。

 「普通にやっちゃダメ?」

 「いや、そんなことはありません」

 それでも、お浄めは親族、親戚だけにした。それ以外の方には、香典の返礼とは別に「お浄めセット」を用意した。軽食やビーフジャーキー、飲み物などを組合わせたセットだ。何か奇妙だが、後で聞くと思ったより評判が良かった。

 お浄めの料理も大皿では出せず、一人一人別あつらえの料理となった。それだけでは寂しいので、フルーツの盛り合わせの大皿を用意した。

 斎場の控え室も何日か前までは、人数制限があって、定員の半分しか入れなかったらしい(その分、部屋数を多く借りなければならない)。

 

 父は山形県の出なのだが、残念ながら親族、親戚は来なかった。父の兄弟や親戚は、非常に義理堅く、これまでも冠婚葬祭では、驚くほどの出席率だったのだが、東京に住む私たちが想像する以上に、コロナ への警戒感、東京への警戒感が強い。

それに、高齢が拍車をかけている。これで、コロナにでもかかったら、家族に申し訳ないということなのだろう。

 少し驚いたのは、家内の職場の若手の職員の方に参会いただけたことだ。職場は結構遠いので、少しびっくりしたが、こういうごく普通の葬儀も、今の若い方には新鮮な経験なのかもしれない、などと考えたのは穿ち過ぎか。

ポーズスケルトン お墓参りセット

 

 コロナ以降の葬式がどうなるのか、父の葬儀が終わったのだから、何がどうあろうと、どうでもよいことなのだが、なんとしても気にかかってしまう。

 葬儀社への支払いの時に、「次は、私だからよろしく」というと、葬儀社は滅相もないと言った。 いや、半分は軽口だが、半分は本音だ。

 叶わぬことだが、自分の時はどんな葬儀が行われているのか、見てみたい気がする。